2010年07月04日

6月29日 シアターχでの“チェーホフ”

「第9回シアターX国際舞台芸術祭IDTF2010」6月29日(火)19時30分〜22時20分頃まで
シアターχには初めて行きました。
時間あったら回向院にも行きたかったな(さすがに夜は無理だ)。

客席に入ると、緞帳の下がっていない舞台にゴールド系のエスニックな雰囲気の布が天井からあしらってあるのが目に飛び込んでくる。

「ManamIdumi Dance Theater マナミイヅミ ダンスシアター
鏡から鏡へ 〜いないいないばぁの私
From mirror to mirror〜Playing Peekaboo〜」

出演:山田いづみ(Dance)Idumi Yamada、瀧田真奈美(篠笛)Manami Takita
特別出演:富士栄秀也(ネイキッドヴォイス)Hideya Fujie

恥ずかしながら私はチェーホフの作品をろくに読んだことがなく、今回の舞台を観るにあたって予備知識を仕入れようとはしたのだけど、この人たちのは調べがつかなかったので、まっさらな状態で観た。

客席の照明が落とされ、暗闇の中、頭上から笛の音。
スポットライトに照らされ静かに舞台へ歩み寄り、やがてダンサーが登場。
何かに引っ張られているような抵抗感、ちょっとパントマイムのような感じもする。
そのうち、男性ボーカル登場。
どこかしらの国の言語とは思われないような、言葉でもなくスキャットでもなくメロディもない、意味があるのか無いのかもわからない、高かったり低かったりする「声」のパフォーマンス。

創作ダンスの舞台をちゃんと観たのは初めてなのだけど、これをどうにか理解しようとしても私には理解できなかった。
怒りなのか、悲しみなのか、嬉しさなのか、笑いなのか、それとも???
声のパフォーマンスは高低・強弱豊かで『すごい』とは思ったけど、ボリュームがありすぎて最後は耳をつんざく騒音に聞こえてしまった。
実際に耳が痛く、大変不快だった。
それもまた「感じとった」ことにはなるのかもしれない。広義では。
この三者の表現に何らかの意味を感じ取ろうとすること自体、意味がない行為なのだろうか。
一瞬、笑いの要素をつかみかけた場面はあったのだけど、そこに至るまでがつかめていないので、そこだけ突然出てきたような感じがした。
15分間の予定だったけれど、非常に長く感じた。


10分程度の休憩時間を挟み(カーテン撤去タイム?)
ダメじゃん小出「さかな Sakana」
緞帳が開くと、黒いがらんどうの空間。いつもの小出さんの舞台空間よりかなり広い。
日本時間でこの日の夜中に行われる、ワールドカップサッカー予選リーグ日本対パラグアイ戦に軽く触れる。
思えば10日前のソロ「負け犬」の時もオランダ戦とかぶっていたのだった。
サッカーがどうでもいいというより(笑)、時間がずれてるんだから両方楽しむことは十分可能だよねぇ。

チェーホフ短編『魚の恋』
別荘の池にすむ鮒(フナ)が別荘に遊びに来たお嬢さんに恋をしたけど『どうせダメだろう』と悲観主義(ペシミズム)的になり、死ぬなら娘に釣られて死にたいと思ったけど釣り針に唇だけ残して池に落ちてしまって気がふれ、後日泳ぎに来た詩人を娘と勘違いしてキスしまくったら詩人に悲観主義がうつり、詩人が新聞社に行ってペシミズムあふれる詩を発表しまくったので、そこに出入りしている他のアーティストにもペシミズムが移り、だからロシアの詩人は悲観的な詩ばっかりなんですよーという、シュールな一品。

これをどんなふうにアレンジしてくるのかと思っていたけど、基本的に、これまでのライブで既に発表されたネタをベースにしたものだった。
客席を「別荘の池」に見立て、自身は別荘の管理人のおじいさんに扮する。
池のフナに「子ども手当」「消費税」等の餌を巻く老人。
別荘の主が頻繁に替わることをなげく。
魚たちももっと怒ればいいのに、何を悲観的になっているのかとつぶやきながら。
次のご主人が何カ月もつか賭けてみるかとつぶやきながら。
様々な問題を投げかけて終わる。

8か月でやめた前の主人を鳥に見立てて揶揄する言葉遊びのネタは、5月のTokuzoやにぎわい座でも披露しているもの。
何回も聞いたはずなのに、何羽の鳥が出たか、いつもわからなくなる。

やっぱり、言葉で理解できるのは気持ちがいい。
ホッとした。
言葉じゃなくてもいいけど、どう思っていいのか感じ取れるのは気が楽だ。
ただ、チェーホフの短編と、もともとの小出さんのネタを強引にこじつけた感じも少々。
初めて見たなら、そうは感じなかったかもしれない。
舞台を頻繁に観に行くのも善し悪しあるということか。

「chairoi PURIN×バベルの塔 (chairoi PURIN×BABERUnoTOU)  熊 KUMA」
振付:鈴木拓朗 出演:浜田真梨子、鈴木拓朗 演奏:宮原里紗、稲川永示

楽器の調整中なので少し待つよう語る男性、その後しばらくして静かに楽器登場。
舞台上には、下半身だけのマネキン。ちょっとおどろおどろしい雰囲気。
頭上にベルをつけた女性が展開役か。
夫の死後貞操を守ってきた未亡人のところへ、夫が作った借金を返せという男が現れる。
すぐ払え・払わないの押し問答の挙句、ふたりの関係は一転…という1幕の話。

戯曲『熊』大筋はそのままだったし、こちらも言葉で説明があるのでわかりやすかった。
15分間での見せ方もコミカルで面白かった。


「短編喜劇映画『ドラマ』Drama」
映画の前に、国立極東工科大学教授のラリーサ・ラフムイロフスカヤさんの解説あり(もちろんロシア語通訳付き)。
1960年代に舞台で演じられたものをフィルム撮りした映画…という説明だったかと記憶。
おおざっぱな話の筋は、小説家の卵の老婆から自作の未発表小説を読み聞かされた作家が、そのあまりのつまらなさに長時間耐えきれず、ついにキレて老婆を撲殺してしまうも、裁判では「無理もない」と罪に問われなかったというブラックな内容。

モノクロの映像は、当たり前のようにいかにも古い。
その上、デジタル化したものを上映するに当たって時々エラーで画面が止まってしまう場面も。
しかもこの上映、字幕も同時通訳も無しという、客席を甘やかさないやり方。

私、ロシア語わかりません。
「ダスビダーニャ(さようなら)」「スパシーバ(ありがとう)」「ダバーイ(がんばれ)」くらいの単語なら知ってるけど、会話は雰囲気で「ロシア語だな」と感じる程度で、まったくダメです。
それでも事前にあらすじを聞いたおかげで、つまんない話を延々聞かされて気が遠くなってくる男の場面や、いらいらした雰囲気、それを全く気にする様子もなく、ひたすら読み上げ続ける老婆の姿の対比を面白く観れた。
男がくらくらしているのを表す場面で老婆の顔が4つくらいぐるぐる回って見える表現とか、レトロな感じもなかなかいい。
言葉はわからなくても、男の気持ちは想像できた。
裁判の場面がなかったので尻切れトンボな印象もあったけど、なかなか面白かった。

この上映をもって今日の公演は終了。
この後講評等のアフタートークタイムがあるということだったのだけど、てっきり舞台上に出演者が再登場して始まるのかと思ってたら、ロビーでやるとのこと。
急いで帰る必要もなかったので残ってみた。

映画の場面で、時々爆笑している人たちがいて「ああロシア語わかるのかー」と思っていたのだけど、その最もたくさん聞こえた方向に座っていた人たちが中央に。
解説をしたラリーサさんや通訳さん、公演に関わった方々だったようだ。
…道理で(笑)。

3つのステージと映画に関する講評のほか、出演者それぞれからの感想が順番に。
その後、客席にも意見を求められ、何人かの方が発言。
ロシア文化(というかチェーホフに?)造詣の深い方や、演劇やダンス等々、何かしら「表現すること」に関わる仕事をしている方々のようで、実に熱い発言ばかり。
意見を述べた人たちにとっては、最も刺激的だったのは最初の創作ダンスだったようだ。
映画の前の演劇も、物語の大筋はチェーホフの作品に沿っていて、笑いもあり、好評だった様子。

…小出さんのはどうかというと、客席からあえて言及する人はいなかったように記憶。
ダンスも演劇も、チェーホフの作品をそれぞれの解釈で表現して見せたということになるのだろうけど、
小出さんの場合、チェーホフが持つブラックでシュールでナンセンスな味わいは、舞台やジャグリングの時のふだんのパフォーマンスが既にそういう要素を内包していると思うので、あえて“チェーホフ作品を解釈して表現する”ということではなかったのかもしれない。
つまり、チェーホフと同じ手法に基づいて自作で15分間を構成したということ。
いちばん最初の人たちもそうだったのだろうか。


表現といえば、しいていえば私の場合は「絵」かなぁ。
10代の頃、美術の学校に通った時期があった。
美術史の勉強もあったけど、やっぱり実技。デッサンの基礎は面白かったなぁ。
木炭デッサン大好きだった。鼻の穴の中や手が墨の粉で真っ黒になるけど、なんか好きだった。
大ざっぱな感じが向いていたのかもしれない。
大学進学を目指していたわけではなかったし、それで食べて行こうなんて気もなかったけど、今に至る友人が出来たのもこの時だった、いい思い出。
今は何を表現するでも創作するでもないけど、人に何かを伝えることに関しては、日々そういうことの積み重ねと思う。
もちろん、この場においてはただの観客。

アフタートークのやりとりを聴きながら観客として感じたのは、表現する人たちが伝えたいと思ったことを、そっくりそのまま客が感じ取れるとは限らないし、
違う解釈をしたとしても、それもまた観る側の自由として残しておいて欲しいということだ。
言葉や、意味のある動きで表現されたらわかりやすいけどね。
わかるということは気持ちのいいことだし、わからないというのはどっちかというと気分のいいものではない。
それでも、観たからには、わかろうと努力するし、自分のほうに持ってこようとするのが客だと思う。

わからないのは、伝え方が適切でないからか、受け手に素養がないからか。
ふだんの仕事では、前者だと思う。
必要に迫られてマニュアルを作ったことが何度かあるが、わかっている者は、わからない者に伝わるように伝えなければいけない。
そこには想像力が必要だ。
でも、芸術に関して思うのは後者だな。
いずれにせよ、こっちの問題ということだ。

最終的に、22時をずいぶん過ぎていたと思う。
右利きの私はふだん使うことが少ない、右脳を大いに刺激された夜だった。

帰りに地ビールパブで2杯飲んでいく。
1杯目が軽かったので、2杯目でバランスをとって(?)うんと苦く。
2杯で1パイント。
ほどほどで切り上げて帰路に。
翌日も仕事だからね。
もっと近かったらいいのになあ。


posted by エマ at 08:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 映画・舞台話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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